復興援助と謝意

荒廃した戦後の日本を復興するために、ガリオア・エロア資金などの膨大な資金援助に加えて、ララ(LARA)物資やケア(CARE)物資という国際NGOからの救援物資として、食料品、医薬品、日用品などの膨大な物資による援助を受けました。

 1946年から51年にかけて日本がアメリカから受けた援助は、総額約18億ドル(内13億ドルは無償援助)にのぼり、現在の貨幣価値に換算すれば、約12兆円にもなります。現在、日本がODA(政府開発援助)で世界160ヶ国に援助している総額は年間1兆5,000億円程度であり、日本1国がアメリカから復興援助のために受けた資金は、このODA援助総額の10年分近くにも相当します。  

 これらの資金援助、救援物資のほかにも、民主主義の定着、女性の復権、さらには技術援助、生産性などの経済ミッション受け入れ等による近代化の促進、日本製品に対する広大な市場開放などなど、多方面に亙り数々の援助を受けました。

 例えば、第二次世界大戦後、日本では、テレビジョンや各種の電子製品、あるいはナイロン、ポリエステルなどの合成繊維など日常生活に欠かすことのできない各種の製品の生産で著しく躍進することができましたが、これらのほとんどは、主として米国からの技術導入によって工業化したものです。

  また、近代化の基礎となるエネルギー部門についても、例えば数万キロワットの出力が最大であった火力発電技術も、米国からの技術導入により急速に発展し、百万キロワット級の大容量・高効率な発電所を建設することができました。その他の業種でも技術導入によって画期的な発展をみたものは枚挙に暇がなく、戦後の日本の経済復興に大きく貢献しました。

 その結果、サンフランシスコ平和条約締結により国際社会に復帰できたわが国は、日本人自身の英知・努力と相俟って、世界中が目を見張るような急速な復興を遂げることができました。

 これらに対して、日本は、戦後日本の復興のために尽くしたマッカーサー元帥個人に対して、1951年4月16日、衆議院と参議院でそれぞれ「感謝決議」をしているものの、これらの膨大な援助と好意そのものに対しては、「感謝」を具体的に表明したことはこれまでには見当たりません。   

それでは、同じように復興援助を受けた他の国々はどのような「謝意」を表したのでしょうか。以下にその要点をお知らせします。

 

ドイツなど   

米国は、第二次大戦で荒廃したヨーロッパ復興のために、西ヨーロッパ諸国に対する経済援助としてヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を提唱し、1948年から1951年までの間に約120億ドルを支出しました。  

  これに対して、戦後25年目に当たる1972年6月5日、ドイツのブラント首相は米国・ハーバード大学で謝意を表す演説をすると共に、約300億円に相当する「ジャーマン・マーシャル・ファンド」をお礼の気持ちを込めて提供し、アメリカとヨーロッパの関係を各分野でより一層緊密なものにするための調査研究費に充ててもらうよう、アメリカに委託しました。 (この基金は、さらに10年後に300億円を追加し、合計600億円となりました。)

 また、イタリアも、ワシントンDCのポトマック河畔に感謝の意を込めて4基の記念碑を建立しました。黄金色に輝く4基のブロンズ像は、イタリアを代表する4つの都市、ローマ、ミラノ、フィレンツェおよびナポリでそれぞれ鋳造されました。なお各像ともその台座には、「1950」の文字が刻まれておりますが、その意味するところは、現在のところ不明です。                    


ポトマック河畔のイタリア記念碑   

2000年7月18日、ドイツから発信されたニュースは全世界の注目を集めました。それは、ナチス統治下のドイツ企業で強制労働させられた人々を補償するために、ドイツ政府と経済界が合計100億マルク(約5,300億円)を拠出する財団「記憶・責任・未来」を正式に発足させた、という報道です。ドイツ政府は、これまでに、ナチスの迫害の被害者らに約1,060億マルク(現在のレートで約5兆6,000億円)の補償を払ってきたが、今回、強制労働させた人々に対しても補償することにより、20世紀に発生した「道義的責務」は20世紀中に果たそうという姿勢をアピールしたと言われております。ドイツのシュレーダー首相は、「これをもって、ナチスが過去に行なったさまざまなことの最終章を閉じることとする。我々は、連綿として続いてきた歴史的・道義的責任をここに終結する。」と演説しました。

  第二次世界大戦中、即ち、1942年2月19日、時の米国大統領ルーズベルトは、在留日系人に対して、米国社会からの締め出し、行動の制限、居住地からの退去、財産没収および監禁することを認めた執行命令No.9066に署名し、これにより全米各地に居住していた12万人以上もの日系人は、着の身着のまま、アメリカ西部の荒野に建てられたキャンプに収監されました。(この執行命令No.9066は日系人にのみ適用され、ドイツ系およびイタリア系の人々には適用されませんでした。)  

 1983年6月22日、CWRIC(戦時における市民の再配置および抑留に関する委員会)は、この行為を人種的偏見および戦時におけるヒステリカルな政治的誤りに基づくものであったと結論付け、国家として謝罪した上で、生存者一人当たり2万ドルを支払うべきことを答申しました。1988年8月10日、レーガン大統領がこの法律(日系アメリカ人に対する賠償法)に署名し、1990年に最初の小切手が最高齢日系アメリカ人に謝罪と共に支払われました。  

 ドイツの「記憶・責任・未来」財団にしても、あるいは米国の「日系アメリカ人に対する賠償法」にしても、これらは、「復興援助に対する謝意」とはいささか次元を異にすることですが、戦後のケジメをキチンとつけた点において、心に留めておかねばならぬことと思います。   

日本は、中国に対して1979年以来、累計7兆円を超える借款を供与しました。その主なものは、北京・秦皇島鉄道、南寧・昆明鉄道、上海浦東空港などに2兆4,535億円、無償資金援助としては中日友好病院、中日青年交流センターなどに1,185億円などが含まれ、日本の対外援助のなかでも最大規模であると共に、中国自身が外国政府から受けている資金協力総額の約40%にも達しています。

  これに対して、「歴史認識」の問題などを背景として、中国当局はこの経済協力に対して「高度の評価」はするものの、特別に謝意を表したわけでもなく、また大部分の中国民衆は協力の事実さえ知らないと言われています。

  このような雰囲気の中、2000年9月8日、中国訪問中の自民・公明・保守の与党3党幹事長を北京の人民大会堂に招いて、中国政府は、対中経済援助20周年の記念式典を行ない、「中国の経済建設への協力と支援に感謝」しました。

  また、10月16日、6日間の訪日日程を終えた中国の朱鎔基首相は、記者会見の席上「日本のODAが中国の経済発展に大きな助けになった」として、特別円借款に率直に謝意を表しました。同様な内容はテレビの市民対話の折にも朱首相が直接発言され、飾らないお人柄と共に率直な姿勢として多数の視聴者が深い印象を持たれたことと思います。

  ところが、中国の「人民日報」や国営新華社通信は、日中首脳会談を大きく報道したものの、日本のODAについては一行も触れず、朱首相の「感謝の言葉」も国民には一切伝えなかった由です。(以上、中国に関する記事は、2000年10月6日、7日、17日および23日付け朝日新聞による)

  「復興援助に対する謝意」を衆参両院の感謝決議にとどめていた日本が、今度は中国から逆の立場で同様な仕打ちを受けているわけです。

  「日本は『察しの社会』と言われるように、自分の考えを口に出してはっきり言わなくとも、以心伝心で相手が察してくれる。これは大国としては世界でも珍しい国である。(中略)国際社会では、グローバル・ビジネスにしても外交の世界でも、お互いに主張を述べ合う中から物事が決まっていく。それが世界の常識である。特に政治や経済の面で『国益』を守ろうとすれば、日本の立場や利益になることを堂々と主張し、相手国を説得する能力が必要である」(小浜正幸著「海外ビジネスマンうまくいく9のヒント」より抜粋)

  復興援助に対しても感謝すべきことには明確に感謝を表し、その上で率直に意見を言うことが、国際社会において特に大切であると思います。



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