ララ物資

第二次世界大戦後、わが国は、衣食住すべての面において、極端な窮乏状態になりました。「腹を空かせ、病に苦しむ日本の子供たちを救おう」と、食料品や医薬品さらには日用品などの膨大な救援物資が「ララ物資」あるいは「ケア物資」として海外のNGOの手により届けられ、1946年から1952年までの間に、1,400万人以上、即ち当時の日本人の6人に1人の割合でその恩恵を受けたと言われます。   

外務省の資料によると、ララ物資については、「多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったため、その救援総額は不明であるが、膨大な額であったと思われる」と記されており、非常に多くの人々の善意の賜物であり、汗の結晶を頂いたことを忘れてはならないと思います。そして、その陰には、米国在住の一人の日本人の並々でない努力と貢献によるものであることを「感謝」をもって長く記憶しておきたいと思います。  

 サンフランシスコに在住していた浅野七之助氏(盛岡出身、1900〜1998年)は、戦後、米国在住の日系人の権益回復・擁護のため、日夜、奔走していましたが、戦後日本の窮状を知り、「一食を分かち、一日の小遣いを割いても、援助することは、良心的な義務」として、1945年11月に同士10人足らずで「日本難民救済有志集会」を開き、邦字紙「ロッキー新報」に「故国の食糧危機重大」と題する記事を載せ、救済運動の盛り上げを図りました。  

 そして翌1946年1月に「日本難民救済会趣意書」を起草し、サンフランシスコ湾東地区在住の日系人を中心として集めた浄財で物資を購入し、「海外事業篤志団アメリカ協議会」を通じて日本に送ろうとしたが、同協議会はヨーロッパの戦災難民救済を対象としており、日本には送ることはできないことが判りました。そこで、川守田牧師らを通じて宗教団体に働きかけ、大統領直轄の救済統制委員会に「日本難民救済会」を公認団体とするように陳情しました。

  1946年9月、漸く認可に漕ぎ着け、日本に救援物資を送ることができる公認の団体・LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia)として発足することができましたが、認可取得に当たっては、後にLARA中央委員会委員として継続的に活躍されたE.B.Rhoads女史(1896〜1979)の尽力が大きく貢献いたしました。

  同女史は、1917年、21才の若さで東京フレンド女学校(現 普連土学園)の教師として来日。またフレンド流(クェーカー教徒)の牧師として滞日していたが、太平洋戦争が始まると同時に帰国しました。しかし、米国では転住所(戦時中における日系人の強制収容所)につながれ、多数の日系人の世話をすると共に、国務省に「日本爆撃即時停止」の嘆願をするなど、平和促進運動に努められました。そして浅野七之助らが「日本難民救済会」を公認団体として救済統制委員会に申請したときに、いち早くこれをとりあげ、ライセンス取得のために尽力しました。その後は、再度来日して、ララ中央委員として活躍する一方、バイニング夫人のあとを受けて、皇族の英語教師を務められた方です。

  これら関係者の献身的な努力が実り、救済品を満載したハワード・スタンバーグ号は、クリスマスに間に合うように早くも1946年11月30日に横浜港に到着しました。さらに1948年には、6大都市の約300ヶ所の保育所でララ物資による給食が開始されました。

  ララの認可に伴って、日本難民救済会の運動は、米国、カナダ、メキシコ、ブラジル、チリ、アルゼンチン、ペルー等南北アメリカ大陸に除々に拡大していきました。

  一方、戦前から日本には多数のキリスト教宣教師が在住しており、これらの方々が戦後再び日本を訪れ、日本の悲惨な現状を見聞し、肌で感じたことを米国の教会関係者に詳しく伝えた結果、「日本の子供たちを救おう」と、アメリカや各国のボランティア団体が立ち上がりました。そして1949年、23の教会諸団体が音頭をとり、全米7万6千の教会が一丸となって、「ゴール1,000万ドル 難民救済の催し」を実施、全米放送を通じて、1億5千万人のアメリカ国民に呼び掛ける大募金キャンペーンに発展しました。その活動には多くの人々が参加し、例えば、アメリカの高校や大学においても、週に一度昼を抜いて、そのお金を“日本の子供たちの募金に回す運動”が大々的に行なわれた由です。

  佐賀平等院住職・西村照純師は、「敗戦直後の日本とララ物資の記憶」と題する一文を記されております。その一部を抜粋して紹介させて頂くと、  

 「戦災で焼け出され、親兄弟を亡くしたり、家族散りじりになり、街中の盛り場に浮浪する孤児たち、また海外から引き揚げてきたが、親も親戚もない引き揚げ孤児たちが戦後の大きな問題となり、各県に孤児を収容する施設が急増した。 (中略) 当園は35名の孤児を収容していたので、配給だけでは足らず、裏の墓地の空き地にカボチャや芋を作ったり、野菜を作ったりして不足を補う一方、母の衣類を田舎の寺に依頼して米や芋等との物々交換をして物資を調達していたが、これらも35名の子供たちの口ではアッと言う間になくなってしまう生活だった。
こんな時代、アメリカからララ物資と言って紙製のドラム缶数本と肉や魚の缶詰、衣類等が運び込まれ、ドラム缶には粉ミルク(脱脂粉乳ではなかったか)が入っており、ただただ驚くばかり。珍しいのと、食べたこともない貴重な食料に『口が腫れるのではないか?』と有り難く頂戴したものだ。   
その上、びっくりしたのは、『横浜まで山羊が来ているので受け取りに来い』とのこと。県の係官と弟が上京。数日がかりで、貨車で数頭佐賀まで山羊を運んできた。たしか日本の山羊より大きくザーネン種という種類だったと思う。 (中略)   
物資欠乏の極に達した時代、このララ物資は有り難い贈り物で、珍しい子供の栄養を考えられた貴重なものとして今でも鮮明に心に焼き付いている。
また当時の学校でも欠食児童が多い中、このララ物資が学校にも(児童対象に援助が行なわれたと思う)配分され、これが戦後の学校給食の始まりとなったと思う。」


  外務省の資料によると、戦後のヨーロッパを救済するために、1945年にアメリカで設立されたNGOの一つであるケア(CARE)は、1948年にヨーロッパ以外では初めて日本に事務所を開設し、1948年から1955年にかけて5,000万ドル(現在の貨幣価値に換算して約4,000億円)相当の物資により、学童、青少年を対象に食糧、医薬品、学用品などを無償配布しました。 衣類や寝具類のパッケージも援助品目にあり、縫い針、ハサミ、メジャー、縫い糸、安全ピン、ボタンなどがセットされており、救援物資には送り主の心までが込められていたと言われます。   


この項は、下記のホームページを参照してまとめました。これらのことについて詳しく調査され、記録されておられることに敬意を表し、「感謝」をもって引用させて頂きました。

*外務省:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/story1
“国際協力ちょっといい話”

*ALICE Project:http://www.juwa.co.jp/alice
“日本が受けた援助の歴史” 

*ABCキルトJAPAN:http://plaza16.mbn.or.jp/~abcquilt/index.html
“「ララ物資」の事を調べています”、“「日系人の夜明け」”、
“ララ物資の想いで”、“50年前の3月29日”、“浅野七之助”

* Yomidasuランド:http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/konojune
“連載[あの言葉 戦後50年]”




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